「正法眼蔵」弁道話より一部分 むかし、則公監院(そっこうかんいんーかんいんは事務長のこと)という僧が法眼禅師の寺にいたことがある。ある時法眼がいう。 「監院よ、この寺に来て何年になる」 「すでに三年になります」 「お前はわしの弟子だが、仏法のことで何か聞きにきた事があるかな」 「正直に申しますと、青峰禅師の所にいたときに仏法を了達いたしました」 「どういう言葉によって安楽な法門に達したのかな」 「私はかって青峰禅師のところにいたときに聞いたことがあります。私の中の自己とはなにでしょうか。禅師のお言葉はこうでした。丙丁童子来たりて火を求む」 「良い言葉じゃな。ただお前はまだわかっていないのではないか」 「いいえそんな事はありません。丙丁童子とは火のことです。火をもってさらに火を求める。自己を持ってさらに自己を求める。そういうことと了解しました」 「うん、やはりお前はわかってはおらん。仏法というものがその程度のものであれば今日までどうして伝わることが出来ただろう」 ここにおいて則公は煩悶して寺を飛び出してしまった。かなり離れてから自ら反省して考えるには 「和尚は天下の大知識、五百人の弟子を持つ大導師。私の非をいさめてくれたのだから、必ず、私を導いてくれるであろう」 すぐに寺に帰り、焼香礼拝して尋ねました。 「いかなるか学人の自己なる」 法眼禅師いわく 「丙丁童子来たりて火を求む」 則公監院はこの言葉に感涙して、大いなる仏道をさとった。 この例ではっきりとあなた方にも判るでしょう。自己即仏が理解できたから仏法が解ったなどとはとんでもない。もし自己即仏の理解が仏法の理解であるのなら先の言葉で則公を導く事はなかったでしょう。 丙丁童子来たりて火を求む(丙丁童子来求火―ひょうちょうどうじらいきゅうか)という青峰の言葉は理解できても法眼の言葉によらなければ体で見ることができなかったのです。だから法眼が戒められたのです。 だから良い先生にあう事が出来たら修行の規則をよく聞いて座禅に専念しても、生半可な知識を自分が手にしたと思ってはいけない。座禅がなければ則公の悟りは無かったが、法眼の示唆がなければ一生その程度が仏法だと思っていただろう。だから良い先生に会ったら自分の理解したところを聞きなさい。座禅し聞法する、これが仏道修行者の全てです。<<<<<< ここの話は理解の仕方の違いをはっきりと示されています。同じ言葉がまったく違うように聞こえた則公もえらいと言わざるをえません。その時に法眼を超えたともいえるのですから。 |